碓井優 - 続々・私の出逢った人

私の出逢った人(11) 2005/1/17
良き新年を迎えられたこととおもいます。
今年も思いつくままに書いて見ようと思います。
昨年暮れに遂にダイエイが事実上の倒産をしました。中内さんが 一代で築き上げたダイエイ帝国もその膨大な負債には耐え切れませんでした。田園調布の中内御殿も芦屋の邸宅も売りに出されるようです。
人は中内さんのことをあれこれと批判しますが、中内さんと言う人は大変な努力家であり、人情にも厚い立派な人だと思います。私が中内さんと知り合ったのは本当に突然でした。
コスモも設立して2年目の頃三菱商事とIBMとコスモの三社合弁でASTと いう会社を立ち上げました。丁度、真藤電電公社は三鷹地区でINSの実験を始めると発表した頃です。突然、中内さんが訪ねて来られたのです 。ASTは何を始めるのか?聞きたかったようです。私は、自分の思いも含めて色々話しました。「ダイエイもぜひ参加したい」とおっしゃるので、「それは大手2社の了解がいるのでそう簡単に私がOKするわけにはゆきません」丁重にお断りしました。
その時期は三鷹の三井中研の土地買収を巡って相手と激烈な合戦をやつている最中でした。「どんなことをやりたいのですか?」私がきいたところ「私にも具体的なイメージがあるわけではないが、情報化時代の新しい小売物流のモデルとでもいったものです。簡単に云えばスターウオ-ズのようなイメージです」と言うのです。その間中内さんは釣りの時に着るようなベストを着て、手帳のよな物をだして熱心にメモを取っておられるのです。後から聞いた話ですが、それをもち帰って秘書に整理させて眼を通すのだそうです。さてこの後、三鷹の土地買収を巡って中内さんが我々の応援に立って大変な騒動を繰り広げることになるのですが、今日のところはこれくらいにして、次回またおはなしします。

私の出逢った人(12) 2005/1/20
私の考えた3社合弁会社ASTは、電電の打ち上げたINS構想がベースですから、どうしても実験地区の三鷹に置く必要があったのです。私が眼をつけた三井中央研究所の跡地というのは、昔私の住んでいた近所にあって、長い間主のいない空家になっていました。空家とは云っても膨大な土地で、まわりは桜の木で囲われたそれは綺麗なところでした。”いつかここに自分達の建物を建てて花見でもしてみたい”と云うとてつもない夢を持っていました。夢というものは持ち続けていれば実現するものなのですね。
しかし、簡単ではありませんでした。この土地は熊谷組に渡っていて次の計画が進行中だったのです。それはイトーヨーカドーと三井生命のジョイントで、大物流センターと大店舗を建てる計画でした。
この計画は熊谷組の東京事業本部が中心になって進めていました。そこへ割り込むには普通に考えていては無理です。私は熊谷組というのは、どこの事業本部がどこを担当すると云う決まりは無く、フリーマーケットでやっている、と言う話を掴んだのです。コスモのスポンサーはゴルフ場開発の会社ですから相談しました。「それなら、横浜のS常務に持って行くのがベストだよ、彼は実力者だから」というアドバイスをもらつて話を持ち込んだのです。我々の計画は時代の流れに合った最も斬新なアイデアですから勝てると思ったのです。
思った通り、熊谷組内部は大混乱となりました。東京と横浜で大戦争になったのです。我々には三菱商事がついています。一日おきに形勢は入れ替わるような情況が続きました。相手がわの弱点を探しました、この話にはもう一枚大きな関わりを持つ所があったのです。地元自治体である三鷹市です。当時、市長は社会党で市議会では少数与党でした。私はこれらの対策の担当を三五回の阪本君に頼みました。2人である社会党の市議に話を持って行ったのです。「イトーヨーカドーの大店舗があそこに建つと、駅前商店街は言うにおよばず、小さな商店の灯が消えますよ」まもなく市議選が始まる頃でした、彼等はこのことをテーマ-にして反対を叫んで選挙を戦ったのです。私も三鷹市民ですから一緒に運動しました。彼等は勝ったのです、大変な支持を得たのです。
ところが、相手も戦術を変えてきたのです。なんと、今までの案の上にNECが乗っかって、我々の案の類似したものになっているのです。
続きは次回にします。

私の出逢った人(13) 2005/1/22
三鷹の土地取得問題は三菱商事に移管しました。問題が余りにも大きく広がり過ぎて、手に負えなくなったのです。三社で三菱商事が土地を取得することを了承、決定しました。しかし、この時点でもう負けたと思っていました。なぜならば、何と言っても相手が先に手をつけた一番手
で、どう見ても我々が横から割り込んだことは明白だからです。
ここで、商事の豪傑が登場するのです。開発建設本部長の吉森さんです。この人とはこの件が起こる前に山野さん(呉一中の大先輩でもと科学技術庁事務次官)を通して紹介され、知っていました。
山野先輩は呉一中から六高を経て東大、そして通産省、科学技術庁と進まれ、トップに登りつめられた人であると言うことは皆ご存知の通りです。我々三津田高校野球部は山野先輩に随分お世話になったのです。
あの鬼の井川さんと言って恐れられた井川先輩などは、食い詰めては山野さんの家へ上がりこんで飯をくっていたと言いますから随分人のいい面倒見の良い親分肌の人なのです。話は長くなりますが、私がASTを立ち上げた時点で、山野さんに社長できて貰えないものか?井川先輩に連れられてお伺いを立てに行ったのです。運良くOKを戴き、商事もIBMも「願ったり叶ったりだ」と云うことになり早々と決定していました。
まだ事務次官在任中ですから、正式に大臣の処へ挨拶に行きました。
商事三村社長、IBM椎名社長、もう一人商事の中興の祖と言われた山田啓三郎副会長と私の四人です。
話を元に戻します。吉森さんは山野さんと六高で同期だったのです。吉森さんは文系なので学徒動員で軍に召集されたのだそうです。その時山野さんと水杯で別れた、という仲なのです。この六高の出身者で作られた会があり、私も何度か飲み会に参加させてもらったことがあります。
一六会と言って、呉一中から六高に進んだ人達の集まりで、その頃最も長老で偉い人に布施検事総長がおられました。ご存知、ロッキード事件で田中角栄をふん縛った人です。この会はいつも吉森さんが取り仕切っていましたから、てっきり呉一中の先輩だと信じて疑いませんでした。
ところが、ある時、同窓会名簿を開いて見たのですが、どこにも吉森さんの名前が無いのです。不思議に思って山野さんにお聞きしたのです。
山野さんは笑いだして「吉森は呉一中ではないんだよ、大阪の中学なのだが、四年生の時、校長をブン殴って退校くったんだよ」「それで一六会に入れてやってるのさ」どうやら検定を受けて六高に進学したようです。そんな武勇伝の持ち主が担当になったのです。
しばらくして、また中内さんがこられたのです「その後どうなりましたか?」「どうもこうもありませんよ、土地問題で負けそうなのです」「相手は何処かね?」「三井生命とイトーヨーカ堂ですよ」と言ったら中内さんの顔色が変りました。「なに!イトーヨーカ堂!」しまった!と思ったのですが遅かった、「どうかね、ここは私に任せないかね、間違いなく取るから」私も咄嗟に「まぁ::駄目だとおもいますがやって見て下さいよ」と言ってしまったのです。後で吉森さんに怒られることになるのですが、この時はどの道ダメだと諦めていたのです。
くたびれました、続は次回に。

私の出逢った人(14) 2005/1/23
中内さんは本格的に動き出したのです。熊谷組に対して今度建設するOO地方の店舗の建設は任せる、値段も交渉に応じる、他に条件があるなら聞かせてくれ、と熊谷組には都合の良い方に条件を吊上げはじめたのです。一方、商事の吉森さんは最後の切り札を出したのです。それは横浜の造船所の膨大な跡地の開発を任せると言う条件をつけたのです。
ある時、吉森さんが大変怒って電話をして来ました。「なにやってるんだ!中内の親爺に任せるといったのか?」「あっ:すみません!」「冗談じゃないぞ!商事が負けるとでも思ったのか!すぐやめさせろ!どんどん値段が釣り上っててるじゃないか!」
驚いた私は直ぐ中内さんのところへ飛んで行きました。
「申し訳ありません、商事の方で話が付きました。手を引いて下さい、お願いします。」「おいおい、冗談じゃない!こっちだって一生懸命やってるんだ、そんなに簡単に手を引けないよ」困ったことになった。
私も少々慌てました。「折角話がついたのですから、どうか手を引いてください、お願いします」私も必死でした。続は次につなぎます。

私の出逢った人(15) 2005/1/24
中内さんはしばらく考えていましたが、「では、こうしょう!新会社で新しい開発が始まって、ダイエーがかめるようなものが出た時は参加させる、という一筆を書いておいて貰う、これでお願いします」これは難題だ!しかし、やってみるしかない。
私はその足で吉森さんのところへ行き、中内さんとの話の内容を伝えました。「そんなことを俺が書けるわけ無いだろう、俺は開建の本部長で今回の事業の担当では無いからな」「まぁ::皆川副社長か、山敬さんに言ってみろよ」そもそも、この話の始まりは山敬さんこと、山田啓三郎副会長と皆川副社長からだから適切なアドバイスです。
先ず、皆川さんの所へ行きました。この人も随分腹の据わった豪傑でした。今は故人ですが、この人とも私は因縁浅からぬものがあり、随分可愛がって貰いました。私がこの人を焚きつけたばかりに、星の事業(衛星事業)に手を出して晩年は失意の内に亡くなりました。それは、衛星を打ち上げたまでは成功したのですが、原因不明の故障を起こし、ついに交信不能になったのです。丁度リクルート事件の裁判が始まった頃です。真藤さんと私でお見舞いに行きました。最後の決断が大変だったようです。星を捨てる決断をする時は、宇宙の外へ飛ばす最後の燃料が残っている時に決断し、軌道から外へ放り出さなければならないからです。代わりの星の手当てから、取引先のアンテナの向きを変える作業まで、大変な費用が掛かるのです。その時も私は言われてしまいました。「真藤さん、私はこいつ(私を指して)に焚きつけられてやったんですよ、お陰でひどい目に遇いましたよ」話を戻します。
皆川さんのところでも中内さんの話を克明にしました。「そうか、まぁ碓井くんよ、中内さんの話は俺にまかせておけ、大丈夫だよ」
それから、どのように大丈夫にしたのかは、私は知らないのです。
その後も中内さんとは色々なお付き合いをしましたが、向こうも、こちらも、この話には触れていないので不明です。しかし、新神戸駅前のホテルを吉森さんと中内さんで建てたのですからそれなりに決着したのでしよう。
無事、三鷹に会社は設立されました。三社の話合いでASTを赤坂に、AST総研を三鷹に、二社設立したのです。
それから毎年AST総研では、関係者を招待して花見の会を開くのが恒例の行事となりました。今はこの二社の合併を皮切りに、三菱系の情報会社を合併に合併を重ね、三千名を越える大部隊となり、名前もアイテイフロンテアに変えて大きく存在しています。
では、また機会を見てASTがどうして誕生するに至ったかを書いて見ましょう。

私の出逢った人(16) 2005/1/25
中内さんの事で少し忘れていた事があります。
その辺のことを私見を交えて少し話してみましょう。
高度成長期からバブル期まで日本の土地は下がることを知りませんでした。この事は誰でも知っていることです。中内さんが拡大していったのはまさに土地です。ダイエーの店舗は大型店舗です。生半可な面積ではありません。当然、郊外の取得し易いところになって行きます。大駐車場完備です。勿論、都会型のものもあります。どんな場所であれ、ダイエーが出てくれば、廻りは賑やかに開発がすすみます。そうなれば土地はうなぎ上りに上がって行きます。ダイエーの担保力は一気に加速します、そこで、また新しい店舗が出来ます。それが更に担保力を生むのです。私も、二部ですが上場企業を持っていました。市場は少しの配当を当てにして投資して来るのではありません。一攫千金を狙っているのです。勿論、全てがそうだ!とは言いませんが、大きく動くのは大半この種の投資家です。従って、夢のある材料が出ると、株価は沸騰します。
株価が上がるということは、資産が増えるということですから、事業をする側にとっては物凄い幅ができるのです。私が三菱商事からオリムピックを買った時は大赤字ですから、百円そこそこです。70億の赤字があったのですが、商事はそれを綺麗に消して、まっ更な会社にして渡してくれたのです。コスモは譲り受けると同時に三社合弁でAST構想を打ち上げ、世間はアッといったのです。今でこそ大手とベンチャーの合弁は別段珍しいものではありませんが、当時はIBMが他社と合弁を組むというのは考えられない大事件ですから、株価は一気に二千円を突破したのです。連日、ストップ高です。結局これが借金の原資なのです。
中内さんはその全てを手にしてるのですから事業はドンドン拡大していきます。そうなると、店舗の赤字、黒字は大した問題ではないのです。
中内家の資産は、株価の一円二円の上下で億単位で変るのですからオーナー企業はオーナーが全てを握っていなければ不安なのです。
銀行はどんどん金を貸します。呉の人も憶えがあるでしょう?土地さえあれば金を借りて下さい、と言って来たものです。「今は必要ない」といっても、「いい株が有るんですよ」「新しいゴルフ場はいかがですか?これは高くなりますよ!」まるで、銀行なのか株屋なのか解らないような跳ねかたでした。
ところが、バブル崩壊で一気に土地も株も暴落し、半値以下に落ちて行きました。土地や株を担保に、目一杯貸していた銀行は担保不足に陥ったのです。追加の担保をよこせ!と言って見ても借りるほうは転がしているのですから有る訳が無い。膨大な不良資産を抱え込んだのです。
今、またITバブルです。ソフトバンクも本体は赤字です。結局は我々がやってきたことを繰り返しているのです。昔と違うのは市場が広くなり調達し易くなったと言うことでしょう。最近ではライブドアの堀江氏がプロ野球に参入するとぶち上げて話題になりました。一応昔で言うところの店頭上場を果たしたことで金はあるのでしょう、本人は大真面目だったかもしれませんが、出来なくて一番得したと思いますよ。彼は色々なものに手を出し始めました。株価もどんどん上がったことでしょう。
恐らく彼は次から次へと話題創りを続けるでしょう。売上は100億程度ですからね。私の所でさえ200億《当時》越えていたのですからね。ある意味いい時代なのでしょう。